JOY FM × まいぷれ宮崎
パーソナリティとして誕生するずっと前…こんな幼少期を過ごしていました。
宮崎の情報メディア「JOY FM」と「まいぷれ宮崎」のコラボ企画の新シリーズ『パーソナリティ My History』の第7弾!
パーソナリティとして誕生するずっと前…ひとりの人間としてどこで生を受け、どのような幼少期を過ごしたのか…家族や、生活環境から、実は!話として…当時のエピソードを交えながら、ラジオに関わるキッカケまでの人となり(歴史)を紐解いていきます\(^o^)/

加藤 亮作さん出演中!
「夕mix~音の旅~」毎週 月~金 曜日 16:00~/「KENTA KASHIWADEのこの声が枯れるまで」毎月 第1日曜日 19:00~/「レディオパラダイス耳が恋した 木曜日アシスタント」
―― 団地の少年が追いかけた声と笑いの物語。
ジャズ界の巨匠レイ・チャールズ、ジョン・コルトレーンと同じ誕生日に生まれた亮作さん。
実家の県営住宅には、彼らの等身大ほどのポスターが飾られ、音楽とともに育った“団地っ子”でした。
今回の【My History】では、加藤亮作さんの幼少期からラジオと出会うまでの物語を辿ります。

哺乳瓶を与えれば、何時間でも静かにしている子供だった。のちに牛乳禁止令が発令される!

ジャッキーチェンや野球が大好き。お兄ちゃんに憧れて早く地元のソフトボールチームに入りたかった。
――まずは幼少期の記憶から伺いたいのですが。
「これが自分の中で最も古い記憶なんですが、父が瓶ビールを提げて帰宅した時に“僕も手伝いたい!”と持ってみたら、見事に落として割ってしまったんです。叱られると思ったら“怪我はないか?”って心配してくれて…。その瞬間、安心と同時に“人に優しくありたい”って気持ちが生まれたような気がします」
幼稚園時代は、自我バッキバキのおませな園児。
かけっこで負けた悔しさから必死に練習し、リレー選手に選ばれたものの、バトンを渡さず独走した“伝説”も(笑)。
卒園アルバムでは「一番カッコよく写りたい!」と帽子のゴムを押し込んで挑んだものの、写真には見事にゴム紐が顔の前に垂れていたというオチも残っています。

とにかくおませな幼稚園児。光GENJI・パラダイス銀河の一芸を身につけたのもこの頃。

Jリーグが誕生した年。サッカー少年団に入団した亮作少年は訳あってGKスタート。哀愁漂う一枚。
小学校2年生で憧れのソフトボールチームに入団。
しかしその夏休み。ディズニー映画「ダンボ」の切ないシーンに衝撃を受け、母から片時も離れられない“心の病”に…。
お陰で大好きだったソフトボールをやめる羽目になった亮作少年だったが、新しいテレビが家に届いた瞬間に回復したというエピソードも。
「切り替え早すぎですよね(笑)。でもその経験が、感受性の強さに繋がっている気がします」
その後は大好きだったはずの野球に戻らずサッカー少年団でゴールキーパーに。
さらに団地のお兄さんに教わったギターとの出会いも。
初めての課題曲は「禁じられた遊び」――しかし父からは“禁じられた”という笑い話も生まれました。
6年生では漫才を初披露したり、卒業時にバレないと思い換気扇の真ん中に名前を刻んでみたものの翌日には見つかってしまった「トイレの換気扇事件」など数々の伝説を残しました。

サッカーも大好きだったが、小4のクリスマスプレゼントは「たま」のアルバム「さんざる」と、お菓子「ハンコください!」5箱。

女の子にモテるにはスポーツ!と思ってひた走っていた小学生時代…その精神構造に大きな衝撃を受けるとこになることをこの頃はまだ知らない。
住吉中学校でもサッカー部に入部し、念願のミッドフィルダーへ。
13歳の誕生日にエレキギターを手にし、Hi-STANDARDやGLAYを練習。
兄がターンテーブルを購入し、音楽の世界が一気に広がりました。
中学2年ではサッカー部キャプテンに。さらにお笑いにも触れ、中学3年の研修旅行ではじめての漫才、これが人生を揺るがす契機になる。
またまた卒業間際にはバンド演奏でギターを披露するというマルチな才能を発揮します。
「“面白い”で存在感を示したいって気持ちが強くなっていった時期でした」

自分の存在感を示すのにスポーツだけでは足りなかった。サッカーと並行してギターへの憧れも強く、ギターソロで一歩前に出ることが夢だった。

中学時代は熱闘・甲子園(松坂世代)で野球が大盛り上がり、サッカー部が廃部の危機を迎えるが当時キャプテンだった亮作少年は(野球の憧れもあるものの)…サッカー部員一人ずつを説得して部を守った。
宮崎北高校でもサッカー部に所属。
しかし自分の本領を発揮できたのは漫才でした。
「幼馴染とコンビを組んで“絶体値(ぜったいち)”を結成したんです。1年生ながら文化祭で3本ネタを披露したら、体育館が揺れるほどの盛り上がりで!」
その後もゲリラ漫才や演劇フェス出演など、活動は学外まで広がりました。サッカー部ではキャプテンも務め、文武両道の3年間。
「無欠席・無遅刻・無欠課。最高の高校生活でした」

中学3年で友達の漫才を見た亮作少年は衝撃を受ける!スポーツ、音楽でステータスを確立しようとしていたが自意識に深く語りかけた結果“面白い”が一番となった。漫才コンビ「絶対値」はそのエネルギーから生まれた
一浪ののち鹿児島大学へ進学。サッカーやフットサルを続けながらも、漫才やシナリオ作りの情熱は衰えず。
「担任から“吉本に行きなさい”って進路相談してもらえなかったんですよ(笑)」
そんな中での出会いが、ラジオ。
エフエム宮崎「タイム・アフター・フォー」を耳にし、「ラジオって面白い」と感じたことが始まりでした。
社会人となって裏方で働きながらも、“やっぱり演者になりたい”という気持ちは消えず。ついにエフエム宮崎のスタッフ募集に応募し、番組制作を経験他にもコミュニティラジオや、ケーブルテレビも経験しました。
その後、パーソナリティとして出会いとなった夕方の番組の時間帯を担当しているのには縁を感じます。

テレビ局の報道部カメラアシスタントとしてメディアの仕事をスタート!バンド活動も本格化!

自分は裏方の人間だと言い聞かせ仕事に従事すればするほど演者になりたいという思いが消えることはなかった。
「裏方での経験も、サッカーも、漫才も、全部が今の肥やしになっている。だから、これからも豊富な経験値に裏打ちされた“声”で人に寄り添える存在でありたいと思います」
幼少期のビール事件から換気扇事件、そして絶体値。笑いと音楽と仲間に彩られた歴史は、“ラジオの声”へと結実しました。
亮作さんの“次の物語”は、まだ始まったばかりです。

表舞台への憧れはあっても中々チャンスは訪れず…そんな時は「未来で自分が待っている」「本物は必ずモノになる」など、異聞を奮い立たせてくれる音楽を好んで聴いていました。写真はバックパッカーで訪れたラオス。

野球好きな僕としては今年はこのポーズでしょう!
本当は野球が好きなんですよ――。数字で語れる世界観に惹かれていたと打ち明ける亮作さん。
それでもサッカーに汗を流し、そして漫才を選んだのは、野球に対するささやかなコンプレックスが原動力になっていたのかも。
取材を通して強く感じたのは、亮作さんが持つ独特の“リズム”です。
ひとつの拍で流れをつかみ、次の瞬間にはこちらの心を引き寄せる。そのテンポの鋭さこそ、スポーツに漫才に共通してたはずです。
次にどんなステージで、どんなリズムを響かせてくれるのか――期待は高まります。
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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