JOY FM × まいぷれ宮崎
パーソナリティとして誕生するずっと前…こんな幼少期を過ごしていました。
宮崎の情報メディア「JOY FM」と「まいぷれ宮崎」のコラボ企画の新シリーズ『パーソナリティ My History』の第9弾!
パーソナリティとして誕生するずっと前…ひとりの人間としてどこで生を受け、どのような幼少期を過ごしたのか…家族や、生活環境から、実は!話として…当時のエピソードを交えながら、ラジオに関わるキッカケまでの人となり(歴史)を紐解いていきます\(^o^)/

DJ Pockyさん出演中!
「 ポッキーのDX RADIO CLUB」 毎週 土曜日 18:00-18:55
「WEEKEND JAM」毎週 金曜日 17:05-19:00
今回の【My History】では、 ウルトラマンに「なりきった」幼稚園児が、アメリカで孤独と人種差別に打ちのめされ、ラジオの声に救われ、ついには自らラジオDJとなって宮崎の電波を揺らすまでーを辿ります。
坂元誠一さんは日南市の黒荷田で生まれた。父親が小学校教師として赴任した僻地での誕生だった。3歳になるころ、父が飫肥小学校へ転任となり、一家は日南市飫肥の十文字へと引っ越す。
姉は2歳上、姉も後に教師となり、姉のご主人も高校の校長、宮崎県の教育次長も務めた。父、母、姉夫婦と、坂元家はまるごと「教育一家」だ。
「実はそうなんですよ。で、僕も実は英会話を帰ってきてから教えてたぐらいですから、やっぱり好きみたいです」
小村寿太郎公の生誕の地、飫肥。 振徳堂(しんとくどう)のある公園でよく遊んだ。
少年時代を振り返っていう。
「地元の英雄として、ポーツマスのこととかハーバードの話とかそんなのめっちゃ勉強しますよ」

赤ちゃんの頃から楽器は身近にあった。

2つ上のお姉ちゃんとの貴重なツーショット!
幼稚園のある日。ジャングルジムに登った少年は確信していた。「変身すれば飛べる」――。ヒーローへの信頼は完璧だったが「結果は骨折」
この「なりきる」資質は、のちのDJポッキーの声の表情の源泉になっていく。骨折した手首と引き換えに、 坂元少年は自分の中に眠る「なりきり遺伝子」を発動させた。

超!恥ずかしがり屋だった頃を過ぎるとだんだん人前に出るように。

仲間となら練習も楽しかった…友達の家に集まって練習を重ねた。
3歳や4歳のころの写真がほとんどない。「超恥ずかしがりやで、ほとんど後ろ向いてて」と苦笑する。あのウルトラマン少年が、カメラを向けられると逃げ出していた。
しかし小学生になると人が変わった。父と同じ学校ということで持ち上げられながら、学級委員長を歴任。そしてもう一つ、大きな経験をする。
音楽との出会いともいえる、県内でもトップクラスの実力を誇った飫肥小学校の合奏部への入部だった 。
「飫肥小学校の合奏部って、先生が非常に情熱的な方で。厳しい練習に耐えて、みんなで一つの音を作り上げていきました。そこで楽器演奏の楽しさを知ったことが、音楽を好きになった原点ですね」
コンクールでは圧倒的な演奏を披露しながらも、先生の指揮に熱が入りすぎたあまり「12秒オーバー」で失格という悔しい経験もした 。しかし、小学生時代に仲間と心を一つにして音楽に向き合った日々は、 坂元少年にとって何物にも代えがたい「宝物」となっている 。

中学時代に交換留学で訪れたロサンゼルス・サンタアナにて。

交換留学のホストファミリー。お世話になった思い出は忘れない。
中学校2年生の秋。友人に誘われて宮崎市民会館へ向かった。上映されていたのはビートルズの映画3本立て――「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」「ヘルプ!」「レット・イット・ビー」。
「もう♪映画を見た途端にはまっちゃって、次の日からもうレコードを片っ端から買って、お袋にギターをお願いして」
今でも「レット・イット・ビー」は歌詞を見ずに歌えるそうだ。
英語の歌詞の意味が知りたくて辞書を引く毎日が始まった。これが思わぬ副産物を生む。「いつも辞書を引くようになってものすごい英語ができるようになって…学校で英語が一番だったんですよ」
この英語力を買われ、英語の先生の推薦を受けて、中学3年生のとき宮日募集のホームステイ(学校推薦)として アメリカ・カリフォルニア州サンタアナへ。30人ほどの県内の中学生とともに1ヶ月、ホストファミリーのもとで過ごした。
しかし現実は厳しかった。「英会話が全くできなかったんですよ。昔の英語は文法ばっかりだから」悔しさを胸に帰国した少年は、心に誓う。「絶対にもう一度アメリカに渡ってリベンジしてやる」と。
中学時代、テニス部に入部したが球拾いばかりの日々。「すいません、球拾いばっかりだったら上手くなりませんけど」と先輩に直言したが、「何言ってんだ、1年は玉拾いだけでいい」と一蹴されて…退部。
かわりにキーボード、ギター、ベース、ドラムを揃えた本格的なバンド編成でビートルズを演奏。中学3年生の文化祭では「レット・イット・ビー」をボーカルとしてやりきった。「上手い下手は関係なしにね(笑)」

ひたすらアメリカへのリベンジに燃えて過ごした日南高校を卒業!

家族4人でのスナップ!アメリカへ多額の費用を賄ってくれた父は最後までそれを口にしなかった。
日南高校に進んだ 坂元青年の目標は一つだった。「大学はアメリカに行く」。3年間、英語だけを磨いた。
「とにかくもうアメリカに行きたいっていう気持ちが大きくて、あんまりいろんなことは逆にしなかったんです」
大学はノースキャロライナ州フェイエットビルのメソジスト大学へ。日本人が少ない場所を勧められ、あえて選んだ地だった。しかしそこはアメリカ第2位の規模を誇る陸軍基地の街であり、人種差別が色濃く残っていた。
「いきなり人種差別に遭って。部屋に引きこもった」

親友のEJとは、サマーバケイションで彼の実家に転がり込む程仲良しだった。

当時アメリカでは大人気とは言えなかったサッカー部へ入ったのは経済的な理由もあった。
これからどうやって生きるのかと落ち込んでいた20歳の青年に、ラジオのDJが語りかけた。
「今日も新しい一日だぜ。昨日嫌なことがあっても、今日は新しい一日だから絶対いいことあるから」
「ラジオのDJの言葉の力とか、音楽の力とかそういうので僕の心がどんどん元気になっていくわけなんですよ…へこんでる自分がなんかバカバカしくなって、すごく元気をもらって」。この体験こそが、DJポッキー誕生の核心だった。
カウンセラーに勧められてサッカー部へ。そこで友人ができ、仲間ができた。全くレギュラーではなかったが、大学4年生では何とキャプテンに就任。
コイントスで先攻後攻決まったらベンチに下がるっていう。「なんや、あのキャプテンは決めるだけかよ!」こんな陰口も叩かれるようなしょぼいキャプテンでした(笑)
フロリダ出身の親友EJ(エドワード・ジョン・ベイド)とも出会い、夏休みには彼の実家に転がり込んだ。1980年から85年、5年間のアメリカ生活だった。

人種差別で引きこもりを余儀なくされた街で真の友人に巡り会えたのは奇跡だったのだろうか。

ノースキャロライナ州メソジスト大学を無事卒業…既にアメリカに戻りたい気持ちもあったが。
1985年に帰国した坂元青年。またアメリカへ戻ることも考えていた矢先、FM宮崎が開局した。1984年のことだった。「僕はもうこれは運命だと思って」
「DJは募集してません」と言われた。「うちはアナウンサーで回してるから」とも。それでも食い下がった坂元青年は、とっさに嘘をついた。
「僕、アメリカで大学時代にラジオDJバリバリやってたんですよ」
なりきりが得意だったからこそ、その嘘は完璧だった。スタジオに通され、英語でバーっとしゃべり、見事オーディションを通過した。「詐欺ですけど、当時はね(笑)」。
しかし「30分番組を作るので営業がスポンサーをとります」と言われたっきり、3ヶ月経っても連絡なし。しびれを切らして電話すると「スポンサーが見つからないので番組はできない」との回答。
次の日、髪の毛をバッサリ切った。スーツを買った。カセットレコーダーに自分の番組のデモテープを入れた。そして故郷・日南に帰り、一軒一軒スポンサーを訪ねて回った。
20件、30件、40件と断られ続けた。そして『堺鮨』の大将が、青年の目を真っ直ぐ見て言った。
「お前は自分の夢を叶えるためにこうやって自分で一生懸命やってんのか。俺はお前の心の姿勢が気に入った。俺はそういう若者を応援したいんだよ」
月5万円のスポンサー第一号が生まれた瞬間だった。その後、大将からの紹介や飫肥の友人たちに電話して残り5社を集め、FM宮崎「サザンウィンド」のDJとしてついにデビューを果たした。

ビートルズに恋して英語を覚え、アメリカで孤独に叩きのめされ、ラジオの声に救われた――その体験のすべてが、DJポッキーという存在を誕生させた!
現在レギュラー番組4本、うち生放送3本。64歳の現役DJが自分に課しているルーティンは、毎朝のラジオ体操第一・第二・第三と、9時間から10時間の睡眠。夜10時には就寝する。
「年を重ねるごとにその体に合った生き方というか。あと一番大事にしてることはやっぱり声ですね。DJポッキーの声が変わらないようにさらに磨きをかけたい」
県外から宮崎を見ると、「スポーツは強い、でもエンターテインメントはもっとできる」と感じるという。
「沖縄とかに行くともう街に音楽が溢れてるんですよ。普通のお店に入ってもみんな三線弾きながら歌歌ったりとか。宮崎もそういうミュージックシティを目指したい」

JAPANロックの大御所「矢沢永吉」氏とのツーショット!
「宮崎をミュージックシティにしろよ!」と言われたかどうかは定かではない。
「最近はいろんな情報が多すぎてちょっと考えすぎてやらない人が多い。でも、人生やるかやらないかですから、もうやった方がいい。失敗しないと成長できないし」 どん底から這い上がり、言葉一つで聴衆を魅了してきた男の言葉には、重みと、それ以上に温かなエールが込められていた。

宮崎のDJスタイルを確立させた坂元誠一(DJポッキー)。
60オーバーとは思えない風貌とパワーはまだまだDJ人生を謳歌している。

「ハッピータイム」
取材中、ポッキーさんは「なりきり」の重要性を説き、即座に外国人の喋りの真似をして場を和ませてくれた。
「なりきりで声に表情をつけたい。自分の世界に生きるっていうよりも、やっぱりいろんな人から影響を受けながら成長していく」
この柔軟な好奇心こそが、彼が第一線で愛され続ける秘訣なのだろう。ラジオから流れる陽気な声の裏側には、人一倍の努力と、深い人間愛が詰まっている。
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

パーソナリティ My History#9
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